Itui
小説 「松田聖子に憬れて。」 第三回
急がなくちゃ撮影に間に合わない。焦って化粧を整えている松浦亜弥がホテル・クラシックバレエ214号室から飛び出す。エクスタシーから一転、彼女はホ
テルのドアを一歩出ると女優になるのだ。今日から新しいドラマの撮影が始まる。
「ドクター&ナース」主演女優・松浦亜弥 男優・所ジョージ
なんだかアダルトビデオみたいな題名だ。それならそれでいっその事アダルトビデオにしちゃえばいいのに。精神病棟を舞台にした患者とナースの感動ドラマ。
ムカムカした。役を演じるなんて本当は真っ平御免だ。そういうと、後部座席から松浦は運転しているマネージャーに向かって唾を吐きかけた。何も言わないマ
ネージャーにもイライラした。彼は微動だにしない。マネージャーの頬にはベッタリとヤニ臭い痰が付いており、少し開いた窓から入る風がそこに当たるとひん
やり冷たく気持ちよかった。沈黙がただただ二人の間を掠めていった。
二時間遅れで現場入りしたものの、怒る人は誰もいない。椅子を持ってきたり、ジュ−スを運んできたり、監督でさえ媚を売ってか知らないが日傘を差したりで
忽ち松浦の周りは人だかりでいっぱいになった。むさ苦しい豚どもめ。所詮私と寝たいだけなんだろ。ゴミゴミゴミゴミゴミゴミ。どこを見てもゴミばかり。何
で女優なんてものになっちまったんだろう。AV女優になりたかったのに…。いつもそればっかり考えている。SEXしたいなぁ。かぁちゃん今何してんだろ
う。
雑然とした現場の真ん中でポツネンと空を見上げたたずむ松浦。目を閉じてみるが、現実は消えない。集中しようとも集中しきれない雑音の中。ひとつだけ気に
なる会話が聞こえてくる。助監督の栗森がエキストラとなにやらもめているらしい。その時だけは周りに嫌気が差していた松浦も気になった。
すいません松浦さん。下っ端ADの鳥山が駆け寄っていった。
少しだけ撮影が遅れるらしいんですよ。そんなのまったく気にならない松浦。
なんでも、エキストラのじじいが撮影で使う蝶の羽を引きちぎって殺しちゃったらしいんですよ。すみません、日陰で休んでてください。
汚いADだ。唾を吐きながら話しやがって、死ね。そう思いつつも松浦は何も言わず、日影にある椅子に向かって歩いた。そのとき彼女はふっと、羽根の無い蝶
を親指で潰す妄想に駆られた。